社交篇
第三の魔法

言葉遣い

もし、あなたにどうしても人間関係がうまくいかない人がいるとしたら、その人に対して正しい言葉遣いをしているかどうか、よく考えてみてください。

言葉とは、「言の葉」ということです。『万葉集』の時代、言の葉は「生命の葉」という幹から出たものとされ、生命の表現であるといわれました。その言の葉には霊が宿ると考えられ、「言霊(ことだま)」と呼ばれていました。言霊は神道の根幹をなす考え方であり、言霊信仰などとも呼ばれます。

これは、口に出した言葉が現実に何らかの影響を与える霊力を持っているとする考え方です。つまり、音声としての言葉が現実化していくとされ、「祝詞(のりと)」を奏上する場合などは特に読み誤りのないように細心の注意が払われました。現在でも、結婚式の席における「別れる」とか「切れる」といった言葉や、受験のときに「落ちる」という言葉を使わないようにするのも、このような言霊信仰に由来しているのです。

それと関連して、自分の意思や感情を積極的に言葉に出すこと、つまり、「言いたいことを言う」行為は「言挙げ」として良くないものとされました。特にその言葉が自分の慢心によるものであった場合、悪い結果がもたらされるゆえにタブー視されたのです。

たとえば『古事記』には、ヤマトタケルノミコトが伊吹山(いぶきやま)に登ったとき、山の神が白猪になって現れたが、ヤマトタケルが「これは山の神の使者であるから、今でなくとも帰りに殺そう」と言挙げして先に進んだところ、その神の祟りにあって苦しんだとあります。

神への信頼があれば、わざわざ言挙げする必要はなく、言挙げは神と人との一体感を冒すものである。このような考えが、日本を「言挙げせぬ国」としてきたのです。しかし、その「言挙げせぬ」伝統ゆえに、後から日本に伝来してきた仏教の経典に書かれた豊かな言語世界の前で劣勢に立たされた事実を忘れてはならないでしょう。

人間は言葉によって、物事を考え、自分の考えを伝えたり、感情を表現したりして、他人とのコミュニケーションをとってきたのです。何気なく使われている言葉でも、その人の人間性が表われてくるもので、言葉遣いによって、その人の育ってきた家庭環境がわかるといっても過言ではありません。

どんなに身だしなみや立ち居振る舞いが立派でも、言葉遣い一つでそれが壊されてしまい、相手に不快感を与えたり、傷つけたりするものです。

若い人たちの言葉には、新語や流行語が次々と出てきます。年長者が聞いても何のことか理解に苦しむことが多々あります。「日本語の乱れ」が叫ばれてから久しいものがありますが、今では若い人の間では乱れなど通り越して、言葉が完全に信号化してしまったといってもよいでしょう。

しかし、言葉遣いは人間関係を良くする魔法ともなります。そこで、最低限必要なのが普通語と尊敬語の違いを知ることです。普通語とは、気のおけない家族や友人の間で使う言葉です。尊敬語とは、目上の人やお客様に対しての言葉です。

代表的な例をあげると、

(普通語) (尊敬語)
する なさる
いる いらっしゃる
来る おいでになる
言う おっしゃる
食べる 召し上がる
見る ご覧になる
聞く お聞きになる

といったような使い方になります。

要するに、相手の立場を考え、相手を思いやる心を持って、美しい、ていねいな言葉遣いをすることが大切なのです。

また、言葉遣いで注意すべきは、無神経でがさつな言葉を使わないことです。フランス文学者で、名エッセイストとしても知られた河盛好蔵の『人とつき合う法』といえば、人間関係を論じた不朽の名著ですが、そこに芥川龍之介が自殺したときのエピソードが書かれています。

芥川の死を久保田万太郎が水上滝太郎に電話で知らせました。久保田は詩人、水上は小説家として知られた人物で、2人とも芥川の友人でした。突然の死の知らせにおどろいた水上は、とっさに「自殺ですか」と聞くと、久保田は「はい、薬を飲んだのです」と答えたそうです。それを聞いた水上は、「なんという自分はがさつな人間だろう、さすがに久保田君は言葉に敏感な詩人だ」と思ったといいます。このエピソードを紹介して、河盛好蔵は、次のように書いています。

「どんな急場にも、粗雑(そざつ)」な言葉を使わないというのはきわめて困難なことであるが、相手の気持、その日の虫のいどころを敏感に察して、それをことさらに傷つけるような言葉はつとめて避けることは、ちょっとした注意でだれにでもできることである」

最後に、言葉遣いで注意したいのは相手の呼び方です。あなたは、人を呼ぶとき、必ず名前で呼んでいますか。わたしは、「君」とか「あなた」とか、名無しの権兵衛として相手に会話をされることが非常に不快です。ましてや、初対面の相手から「おまえ」とか「あんた」とか呼ばれたら、「あれ、けんかを売られているのかな?」と考えます。

当然ながら、名前のない人はいません。すべての人には名前があります。そして、その名前には何らかの意味があります。

わたしは、名前とは世界最小の文芸作品ではないかと思っています。日本では短歌や俳句が浸透していますね。短歌ならば31字、俳句だと17字の詩歌の「かたち」を国民が共有しているというのは、すごいことです。でも、名前で17字もある日本人はいません。つまり、名前は俳句よりさらに短いわけです。

命名の苦労は、文芸における創作の苦労とまったく変わりません。誰でも、わが子に納得のいく名前をつけようとします。先祖や親の名前や生まれた季節にちなんだり、たとえば「真」「善」「美」といったキーワードを入れようとしたり、語感で飾ろうとしたりするわけです。

すなわち、名前とは親が「このような人間に成長してほしい」という願いを込めた文芸作品だといえるでしょう。詩には志が宿るといいますが、名前には親の願いが宿るのです。

そんな名前は、すべての人にとっての宝物。

人間にとって最も目に心地よい視覚情報は何だかご存知ですか。それは、自分の姿だそうです。どんなに自らの容姿に自信のない人でも、自分がうつった写真などは最高の目のごちそうとなります。では、耳のごちそう、つまり、最も耳に心地よい音声情報は何かというと、それは自分の名前なのです。

あなたがビジネスマンやサービスマンなら、お客様の名前をきちんとお呼びしていますか。単に「お客さん」とか「お客さま」とか呼んでいませんか。相手の名前がわかっている場合は、必ず名前で呼んでください。

青木さんという方が会社やお店に来られたら、「いらっしゃいませ」ではなく、「青木さま、いらっしゃいませ」と迎えてください。お礼を述べるときも、「ありがとうございます」ではなく、「青木さま、ありがとうございます」です。

お客さまだけではありません。会社の上司、同僚、部下などをきちんと名前で呼んでください。部下の山本さんに何か仕事を依頼するときも、「君、頼むよ」ではなく、「山本さん、お願いします」というべきです。

これは、家族でも友人でも知人でも同じこと。人を呼ぶときは、必ず名前で呼んでください。相手を名前で呼ぶことこそ、人間関係を良くする基本中の基本なのです。

つまるところ、言葉遣いとは心の表現に他なりません。こちらの心に思いやりがあって、相手を尊重する気持があれば、言葉遣いも自然とそれに伴ってくるものなのです。

言葉遣いが人間関係を良くすることを、くれぐれもお忘れなく。