法則篇
第十四講

幸福になる法則

巨大な黒魔術師

魔術とは何か。それは、人間の意識つまり心のエネルギーを活用して、現実の世界に変化を及ぼすことです。そして、魔術には二種類あります。心のエネルギーを邪悪な方向に向ける「黒魔術」と、善良な方向に向ける「白魔術」です。そして、「黒魔術」で使われる心のエネルギーは「呪い」と呼ばれ、「白魔術」で使われる心のエネルギーは「祈り」と呼ばれます。

「引き寄せの法則」で使われる心のエネルギーが「呪い」に近いものであることが、もうおわかりいただけたと思います。錬金術の先にある魔術とは、「黒魔術」だったのです。なぜなら、それは自らの現状を否定し、宇宙に呪いをかける行為に他ならないからです。

「20世紀最大の黒魔術師」と呼ばれたアレイスター・クロウリーという非常に有名なオカルティストがいます。彼は、人間の心のエネルギーを利用して、セックスをはじめとしたあらゆる欲望を叶える魔術を開発しました。その主著の題名は『法の書』といいます。黒魔術師クロウリーも、「法則ハンター」だったのです。しかし、彼の使った心のエネルギーは「呪い」であるとして、後世の多くの人々から厳しい批判を受けました。

ある意味では、クロウリー以上に巨大な黒魔術師であったとされているのが、かのアドルフ・ヒトラーです。クロウリーをはじめ、神秘作家のW・B・イエイツ、アーサー・マッケン、アルジャナン・ブラックウッドなどのメンバーが集まっていた魔術結社「ゴールデン・ドーン(黄金の夜明け教団)」の隆盛によって、十九世紀末のヨーロッパでは魔術の復興が爆発的に流行しました。これを政治の世界で利用しようとしたのがヒトラーでした。「ヒトラーは真に神秘的な呪術師の範ちゅうに属する人間である。彼は予言者の目をしている。彼の力は政治的なものではない。それは魔術である」

これは、心理学者ユングの言葉です。ナチスとオカルティズムとの密接な関係については現在ではよく知られています。実際、ヒトラーの人生にはつねに魔術の影がつきまとっていました。そして彼もまた、「法則」を求め続けた人物でした。

1889年、オーストリアの田舎町ブラウナウで下級税官吏の四番目の子どもとして産声をあげたヒトラーは、中学を中退して、ウィーンに出ます。そこで芸術に目ざめた彼は画家を志しますが、美術アカデミーの入試に失敗します。街頭の絵描きやペンキ画工として浮浪者に近い貧困生活を送りましたが、とめどのない知識欲を持つ彼の心は輝いていました。ウィーンは魔術的な教養と能力を身につけるためには最高の舞台だったからです。

ヒトラーは時間の許す限り、毎日図書館に通い、閉館まで読書をしたそうです。彼は、古代ローマ、東方の宗教、ヨーガ、オカルティズム、占星術、催眠術などに関する書物をむさぼり読みました。とくに熱中したのは、エジプトの『死者の書』、インドの古典である『リグ・ヴェーダ』と『ウパニシャッド』、ゾロアスター教の聖典『ゼンド・アヴェスタ』、そして『聖書』などであったといいます。彼は、人類史の大いなる「隠された秘密」、ひいては宇宙の「法則」を読み取ろうとしていたのでしょう。

ヒトラーがたどり着いた恐るべき法則

「法則」に対するヒトラーの関心の強さは、彼の著書『わが闘争』(上下巻・平野一郎&将積茂訳、角川文庫)の内容からもわかります。上巻の第十一章「民族と人種」において、彼は次のように述べています。

「人間はどんな事柄についても自然を征服したことなどなく、せいぜい自然の永遠のなぞと秘密をおおい隠している途方もない、巨大なヴェールのあの端、あるいはこの端をつかみ、持ち上げているにすぎない。また彼は、本当のところ、なにものも発明などせず、全部発見したにすぎない。次に、彼は自然を支配せず、個々の自然法則や秘密についての知識に基づいて、こうした知識がまったく欠けている他の生物の支配者の地位に上がったにすぎない」

このような人間観および法則観を持つヒトラーは、ついに恐るべき「法則」に行き着きます。まず彼は、民族主義的世界観なるものを支持します。これは、人類の意義を人種的根源要素において認識する見方であり、原則として国家の存在を目的のための手段としてとらえます。そして国家の目的としては人間の人種としての存在を維持することと考えるのです。下巻の第一章「世界観と党」で、ヒトラーは述べます。

「民族主義的世界観は決して人種の平等を信じないばかりか、かえって人種の価値に優劣の差異があることを認め、そしてこうした認識から、この宇宙を支配している永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である、と感ずるのである。したがって原則的には、民族主義的世界観は自然の貴族主義的根本思想をいだき、この法則がすべての個体にまで適用されることを信ずるのだ」

このように、人間の平等を否定し、弱肉強食を肯定することこそが宇宙の「法則」にしたがうものだと、ヒトラーは考えたのでした。その結果が、人類史に最大級の汚点を残すユダヤ人の大虐殺でした。アウシュビッツなどの強制収容所へ送られて虐殺されたユダヤ人犠牲者の総数は約600万人にのぼるといいます。ヒトラーは、ユダヤ人のみならず、人類そのものに対して「呪い」をかけたのです。

このヒトラーの民族主義的世界観の基本には、優者が劣者を駆逐するという「優生思想」があります。その源流をたどれば、明らかにダーウィンの進化論における「適者生存の法則」や、メンデルの遺伝学における「優性の法則」にまで行き着くことは否定できません。もっとも、そこにヒトラーが独自の解釈を加えたのも事実ですが。

いずれにしても、「法則」というものが「確信」につながり、それが「信念」を生む。その「信念」は善悪に関わらず「実行」に移される。まさに「法則」とは、取り扱い厳重注意の危険物だということがわかりますね。そして、単なる一介の魔術師にすぎなかったクロウリーなどよりも、ヒトラーがはるかに巨大な力を持つ黒魔術師であったかを思わずにはいられません。

ヒトラーは、さまざまな自らの欲望を「引き寄せ」ました。権力の頂点に立つという権力欲しかり、他国の領土を侵略して奪うという所有欲しかり。何よりも、異常なまでに強く憎んだユダヤ民族を根絶やしにしたいという破壊欲に、彼の「呪い」は最大限に発動しました。ヒトラーはまさに、「一人でも多くのユダヤ人をこの世から消し去りたい」という願望を引き寄せたのです。人類史上、これほど巨大な「呪い」が実現したことがあったでしょうか。

敬虔なカトリック信者としてのヒトラー

そして、このヒトラーのような残虐な人物の心には「愛」のかけらもないように思えますが、彼は「愛」を説く宗教であるキリスト教、それもカトリックの熱心な信者でした。彼はエバ・ブラウンと、カトリックによる結婚式をベルリンの地下壕で挙げ、「永遠の愛」を誓っています。その直後に2人はピストル自殺しました。

カトリックの総本山は、いうまでもなく、ヴァチカンです。ヴァチカンは、ナチスによるユダヤ人ジェノサイド(大虐殺)に対して何の対応もできず、結果として黙認した形となりました。この歴史上の事実は、キリスト教世界の大きなトラウマとなり、それは今日まで続いています。

さて、ナチスの式典や祭典が荘厳な演出に満ちていたことはよく知られていますが、それらはカトリックの儀式を徹底的に意識したものでした。そして、その最大のハイライトはヒトラー自身の演説でした。

神がかり的といわれたヒトラーの演説の中には、巧みに計算されたローテクとハイテクによる演出が織り込まれていました。夕暮れから夜にかけて行なわれ、当時の最新テクノロジーであったマイクやサーチライトも使われました。

満天の星空の下、無数の松明(たいまつ)が燃えさかり、サーチライトが交錯する。ファンタスティックな光景に加え、大楽隊の奏でる楽器の音が異様な雰囲気をかもし出し、マイクで増幅されたヒトラーの声が民衆の中の憎悪と夢を呼び起こす。熱気と興奮。恍惚と陶酔。すでに催眠状態に陥った民衆の心は、ヒトラーの発する霊的なパワーに完全に支配されてしまう。これが魔術でなくて何でしょうか。魔術とは人間の意識を変容させるものです。ヒトラーこそは、まさに稀代の魔術師だったのです。

そして、その最大の武器こそがヒトラーが発する言葉でした。言葉というのは、じつは「引き寄せの法則」、ひいてはキリスト教の本質に関わるもっとも重要な要素です。「引き寄せの法則」とは、「思考は現実化する」ということであり、この場合の「思考」とは「言葉」と同義語です。つまり、日本の神道における言霊(ことだま)信仰にも通じますが、言葉がいったん人間の口から発せられれば、それはひたすら現実化に向かって進んでいくという考え方です。その考えの延長線上に、キリスト教の「祈り」があるわけです。

もともとキリスト教は、何よりも「言葉」というものを重んじる宗教です。『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」の第一章第一節には、次の有名な言葉が出てきます。

「初めに言葉があった。言葉は主と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった」

言葉が、すべてのものを創ったというのです。まさに、言葉=思考が現実化して、この世界そのものができたというのです。

忘れてはならないのは、その言葉とは、「祈り」だけではなく、「呪い」をも生み出すものだということです。2世紀の終わり頃に書かれたと推測される「トマスによるイエスの幼時物語」というものがあります。『新約聖書』が編纂されたときに切り捨てられた文書、いわゆる「新約外典」と呼ばれるものの一つです。ここには、少年イエスがさまざまな超能力を起こしたことが記されています。

イエスの殺人

ここで注目すべきは、少年イエスが言葉によって数々の奇跡を起こし、さらには言葉によって多くの人々を呪い殺したという、信じられないようなエピソードです。

まず、5歳のイエスが水溜りで遊んだとき、泥で12羽の雀を作りました。これはキリストの12弟子の象徴ともされていますが、イエスはこの泥の雀に「行け」と叫びました。すると、雀たちは本物になって羽を広げ、鳴きながら飛び去っていったといいます。

幼いイエスは水溜りを作って遊ぶことが大好きでした。ところが近所の子どもがやって来て、イエスが作った水溜りを壊してしまいます。怒ったイエスは、この子に次のような呪いの言葉をかけます。

「不義にして不敬虔かつ愚かなる者よ、穴と水がお前に何の不正をなしたのか。見よ、今やお前は木のように枯れてしまう。そして根も葉もなく、実もつけないだろう」

すると、その子はすぐに全身が枯れて死んでしまいました。なんと、イエスが殺人を犯したのです。死んだ子の両親は遺骸を抱えながら、イエスの父であるヨセフのところに行き、「あなたはこんなことをする子を持っているのだ」と糾弾しました。

でも、イエスの殺人はこれだけではありませんでした。あるとき、イエスが村を通っていると、子どもが走ってきて、イエスの肩にぶつかりました。怒ったイエスが「お前はもう道を進めないぞ」と言ったところ、子どもは倒れて死んでしまいました。肩が触れたからといって相手を殺してしまうとはヤクザも真っ青ですが、この様子を見ていた人々は恐怖におののきながら、「この子はどこから生まれて来たのだ。その言葉はみなすぐに成就してしまう」と述べました。

死んだ子の両親がまたもやヨセフのところに来て、非難しました。そして、言いました。「あなたはこんな子どもを持っているからには、われわれとともに村に住むことはできない。それが嫌ならば、祝福だけにして呪わないように彼に教えなさい。彼はわれわれの子どもを殺してしまうのだ」

祝福だけにして呪わないこと。人々は、これをイエスに教えよとヨセフに要求したのです。まさに、「引き寄せの法則」が善悪を選べないことに人々は気づいていたのかもしれません。

あまりの苦情の激しさに、ヨセフはイエスに折檻を加えます。しかし、イエスは逆切れして、苦情を言ってきた人々に呪いをかけるのです。イエスが「彼らは自分の罪を蒙るでしょう」と言ったとたん、イエスを訴えた人々の目は見えなくなってしまいました。

これを見た人々は心底から恐怖を感じ、困惑しました。そして彼らはイエスについて、「その話す言葉は、善いことでも悪いことでも、みな成就して不思議が起こるのだ」と言い合いました。

このように、イエスは恐るべき超能力を持つ不良少年でした。しかし、彼はその後、たくさんの善い行ないによって、人々から愛されるようになりました。もっとも、その「善行」とは、かつてイエスが呪いをかけて殺したり、傷つけた人々を元の状態に戻したというのが実態でした。イエスが「癒し」の言葉を終えたとき、その呪いに陥っていた人々はみな即座に癒されました。それからは、あえてイエスを怒らせようとする人は誰もいませんでした。

総会屋としてのイエス

元外務官僚でノンフィクション作家の佐藤優氏は、同志社大学大学院神学研究科修了という経歴の持ち主で、自ら教会学校で「聖書の先生」を務めるなど、キリスト教に造詣の深いことで知られています。佐藤氏は、著書『インテリジェンス人間論』の中で、「トマスによるイエスの幼時物語」を紹介し、不良少年としてのイエスを描き出しています。佐藤氏は、このイエスの「癒し」について次のように述べます。

「人為的に作り出した障害を除去することで、『癒し』とし、その後、誰にも文句をつけさせなくするというイエスの手法は、現代の総会屋に通じる」

神学的にはこの「幼時物語」は偽典であるとの評価が定まっていますが、佐藤氏はイエスが不良少年であったとの印象がどうしても拭い去れないといいます。偽典などではなく、正式に『新約聖書』に収められている「マルコによる福音書」には、エルサレムの神殿にやって来たイエスの一行のふるまいが描かれています。それによると、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返しました。佐藤氏は、この乱暴なふるまいに、不良少年イエスの面影があるというのです。

たしかに神学的には偽典とされているかもしれませんが、わたしもこの「幼時物語」には、多くの歴史的真実が含まれているような気がします。何よりも、言葉によって「引き寄せの法則」が作動し、そのメッセージ内容によって「呪い」にも「癒し」にもなりうるのだという大いなる真理がそこには語られているのではないでしょうか。

法則と幸福を追究したラッセル

昔から「人を呪わば穴二つ」と「人を祈らば穴二つ」という似た諺(ことわざ)があるように、「呪い」も「祈り」もそのベクトルが違うだけで、エネルギーの種類は同じなのですね。

そして、「呪い」は他人への「ねたみ」という形でもっとも発動されやすいことに注意しなければなりません。ここで、人間の幸福が「ねたみ」と密接に関係していることを喝破した人物を紹介したいと思います。その人物の名は、バートランド・ラッセル。いうまでもなく20世紀を代表する知の巨人です。アインシュタインが20世紀の理科系の知の代表なら、ラッセルは文科系の代表とされるほどの大物です。

その天才ぶりは多面的な活躍によく表れています。まず、ラッセルは数学の天才です。ホワイトヘッドとともに『数学原理』という大著を著わしました。これは、数学と論理学を結合した、とにかくものすごい本です。それから、ラッセルは哲学の天才です。『西洋哲学史』というこれまた大著をまとめ、なんとノーベル文学賞を受賞しています。

数学と哲学史における史上最高の名著が同一人物によって書かれたというのは本当に信じられないことですが、正真正銘の事実です。おそらくラッセルは、多角的に「法則」を追求する天才だったのでしょう。

ラッセルは、「法則」のみならず「幸福」も追求しました。彼は、つねに人類の幸福というものを視野に入れ、第一次世界大戦の頃から反戦運動を展開しました。また、米ソの冷戦中は核兵器廃絶運動を盛り上げています。

そして、五八歳にして叡智に満ちた著書『幸福論』を書き上げました。この本は大ベストセラーとなり、欧米では今もロングセラーとして多くの人々に読まれています。

ラッセルの『幸福論』は、日本では岩波文庫から出ています。この岩波文庫には他にも『幸福論』という同じタイトルの本が出ており、その著者は、ヒルティ・アラン、三谷隆正の3人です。この3人による『幸福論』には、キリスト教、それもカトリック的色彩が強いという共通点があります。

しかし、ラッセルの『幸福論』は明らかに違います。その内容をひと言で要約すると、「自分がねたみ深い性質をもっていると自覚するだけで、人はかなり幸福になれる」というものです。

そう、ラッセル『幸福論』の最大のキーワードこそ、「ねたみ」なのです。とくに「民主主義の根底にはねたみがある」と指摘し、自己評価が客観的でないと被害妄想が生まれると述べています。そして、その被害妄想が「ねたみ」と結びつき、人を不幸にするといいます。その際に自分の「ねたみ」を認識できないと、それを正当化しようとする自己欺瞞が生まれると、ラッセルは主張するのです。

「夢」ではなく「志」を

 これはキリスト教的幸福論とはまったく一線を画した考え方であり、他人への「ねたみ」から欲望が生まれ、それが煩悩となり、ついには不幸となるという点は仏教的ですらあります。天才「法則ハンター」であったラッセルには、「ねたみ」から生まれる欲望が「呪い」に通じていることがよくわかっていたのでしょう。

もちろん「祈り」を使った「白魔術」も実在します。この方法をとった人々は、一時の夢をかなえた後は奈落の底へ堕ちるということはありません。彼らこそは、真の成功者であるといえます。そして、ここで「志」が重要なポイントになります。実際、社会的に大きなことを成した偉人や成功者の言葉などに触れると、「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」という想いが強く感じられます。つまり、彼らには「夢」ではなく「志」があったのです。

「夢」を持つことの大切さを、いろんな人が説いています。たしかに志望する学校に入ったり、仕事で成功したりする「夢」を持つことは悪くありません。でも、それはあくまでも途中の通過点であるはずです。真の成功者はみな、世のため人のためという「志」という名の最終目標を持っていました。「夢」そのものを目標とすると、それがそのまま「呪い」になりうるということをいつも意識しなければなりません。「夢」とは何よりも「欲望のかたち」であることお忘れなく。

そして、「引き寄せの法則」とは「万有引力の法則」と同じで、単なる自然現象なのです。単なる自然現象に善悪はありません。だから、「引き寄せの法則」そのものは決して悪くないのです。引き寄せる対象が「富」とか「成功」であるから「呪い」に発展しやすくなるのであって、「祈り」に発展しやすい対象を引き寄せればよいのです。

すなわち、「志」を引き寄せればよいのです。そのためには視覚化も大いに利用すればよいのです。これは誤解を招く例かもしれませんが、たとえば、あなたが勲章を貰った場面を想像してみるのはどうでしょうか。勲章を貰うなどとは「名誉欲」そのものではないかという意見があるかもしれませんが、それは誤解です。勲章というのは、金で買えるものではありません。社会に貢献し、それを国家が認めた人間しか貰えないのです。だから、勲章を貰う場面というのは、悪い「手段」を介してというのはありえないわけで、それはあなたの「志」が果たされたことの証明にもなるのです。

「叙勲なんて恐れ多くてとんでもない」という方には、とっておきの良い方法があります。ずばり、自分の葬義をイメージしてみてはいかがでしょうか。そこで、友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像するのです。そして、その弔辞の内容を具体的に想像するのです。そこには、あなたがどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像してください。そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」といわれる。どうですか、自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。その場面に、「志」を投影してしまえばよいのです。

あなたが幸福になる二大法則

とにかく、「志」のある人物ほど、真の成功を収めやすい。なぜでしょうか。「夢」だと、その本人だけの問題であり、他の人々は無関係です。でも、「志」とは他人を幸せにしたいというわけですから、無関係ではすみません。自然と周囲の人々は応援者にならざるをえないわけです。

いったん「志」を立てれば、それは必ず周囲に伝わり、社会を巻き込んでいき、結果としての成功につながるのではないでしょうか。また、「これが欲しい」「早く寄こせ」といって宇宙に宣戦布告するのではなく、すべてを肯定し、現状に感謝するのです。その上で、社会をよくするべく、さらに一歩踏み込んでいくわけです。

企業もしかり。もっとこの商品を買ってほしいとか、もっと売上げを伸ばしたいとか、株式を上場したいなどというのは、すべて私的利益に向いた「夢」にすぎません。そこに公的利益はないのです。社員の給料を上げたいとか、待遇をよくしたいというのは、一見、志のようではありますが、やはり身内の幸福を願う夢だと思います。

真の「志」は、あくまで世のため人のために立てるものではないでしょうか。そのとき、消費者という周囲の人々がその「志」に共鳴して、事を成せるように応援してくれるのではないでしょうか。そして、結果としての企業の繁栄があるように、わたしは思います。

 何か大いなることを成したいと考えておられる方は、ぜひ世のため人のために「志」を立てられるとよいでしょう。あなたの心の焦点が「私」から「公」に移行し、それを宣言したときから、あなた一人の問題ではなくなり、周囲の人々も巻き込まれてゆくのです。そして、ひとたび立てられた「志」は、立てられた瞬間から、ひとときも休まず実現に向かって進んでゆくのです。