第三講「神化するサイエンス」

 まったく、ものすごい時代になったものだ。ついに宇宙の年齢がわかってしまったのである。二〇〇三年二月、米国NASAの打ち上げた人工衛星WMAPは、生まれてまだ三八万年しか経っていない頃の宇宙の地図を描き出した。人類がいま、描くことのできる最も昔の姿であり、それを解析することによって、宇宙論研究の究極の課題だった宇宙の年齢が一三七億年(誤差二億年)と求められたのだ。十年前に「宇宙の年齢は何歳ですか」と専門家にたずねても、「まあ、一〇〇億年か二〇〇億年ですかね」という答しか返ってこなかった。実に、有効数字が一桁もないような状況だったのである。それが、いまや「一三七億年です」という三桁の数字で答えられるようになったわけだから、本当にすごいことである。
 宇宙を一冊の古文書として見るならば、その解読作業は劇的に進行している。それというのも、二十世紀初頭に生まれた量子論と相対論という、現代物理学を支えている二本の柱が作られたからである。さらにこの二つの物理学の根幹をなす法則を駆使することによって、ビッグバンモデルと呼ばれる、宇宙の始まりの瞬間から現在にいたる宇宙進化の物語が読み取られてきた。
 宇宙はまず、量子論的に「有」と「無」の間をゆらいでいるような状態からポロッと生まれてきた。これは「無からの宇宙創生論」といわれているものだ。そうして生まれた宇宙は、ただちにインフレーションを起こして急膨張し、インフレーションが終わると超高温、超高密度の火の玉宇宙になり、その後はゆるやかに膨張を続ける。その間に、インフレーション中に仕込まれた量子ゆらぎが成長して、星や銀河が生まれ、太陽系ができて、地球ができて、その上に私たち人類が生まれるという、非常にエレガントな一大叙事詩というか宇宙詩とでもいうべきシナリオができ上がってきたわけである。
 そこで宇宙と人間との関係について考えると興味は尽きないが、いわゆる「人間原理の宇宙論」というものがある。現在、私たち人類がこの宇宙のなかに存在しているわけだが、物理的考察をすると、人類が宇宙のなかに存在しうる確率は、ほとんどありえないものとする考え方である。つまり、あたかも神によって「人類が存在できる宇宙」が必然的に選ばれたかのごとくに、さまざまな事柄が調節されて、初めて人類が宇宙のなかで誕生し、存在することが可能である、いや、そうとしか考えられない、そのように宇宙をとらえるものが「人間原理の宇宙論」だ。
 宇宙のなかにある物質の量とか、宇宙の曲率とか、あるいは原子核同士が核融合反応を起こすときの核反応率とか、その他もろもろのあらゆる物理的諸条件の値が少しでも違っていたら、太陽も地球も誕生せず、炭素もできず、炭素型の生命体である私たちの存在もなかったわけである。このように、現在の宇宙の様子をいろいろと調べると、私たち人間が存在するためには、きわめて計画的に、ものすごい微調整をしなければならない。偶然にこうした条件が揃うようなことはまずありえないだろう。だから、人類のような高度な情報処理のできる生命が存在しているという事実を説明するときに、「これはもう、人類がこの宇宙に生まれるように設計した神がいたのだ」という発想が出てくるわけだ。
 では、神という設計者なしで、私たちが存在する理由はどう説明できるのだろうか。最近の主な考え方に「マルチバース」というものがある。マルチバースとは、ユニバース(世界、宇宙)の「ユニ」を「マルチ」に置き換えたものだ。つまり、宇宙というのは、一つ(ユニ)でなくてもいい、たくさん(マルチ)存在していい、宇宙はいくらでも無限に生まれるのだという考え方である。
 ビッグバン宇宙国際研究センター長を務める宇宙物理学者の佐藤勝彦氏は、自身が提唱者の一人である有名な「インフレーション理論」を発展させるなかで、インフレーション中の宇宙には、子どもの宇宙がいくつも生まれて、さらに孫の宇宙、曾孫の宇宙も生まれるという理論を考えた。
 佐藤氏によれば、一つの宇宙がインフレーションを起こせば、必ず、さまざまな子宇宙、孫宇宙がたくさん生まれてくる。宇宙の年齢も違う、曲率の値も違う、物理学の法則も違う、いろいろな宇宙が生まれる。そのなかで、小さな確率であるけれども、偶然に、炭素ができて、十分な時間が約束されたがゆえに、知的生命体の人類が生まれるような条件の整った宇宙が生まれることもあるだろう。そして、その宇宙のなかに住んでいて、世界を認識されるから、その宇宙は自分たちが存在できるように巧妙に調整されたように見えるわけである。
 もちろん、知的生命体が生まれない宇宙も無限にあるわけだが、そこにはその宇宙を認識する主体も生まれない。つまり、宇宙を認識できる知的生命体にとっては、自分が認識できる宇宙は必ず、自分が選ばれたように見える宇宙になると説明できるのだ。
 この佐藤氏によるマルチバース理論は、「人間原理の宇宙論」の解釈として強力な説得力をもっている。そして氏は、「宇宙について考えていくと、結局、人間の存在の意味や意義についても、何かが示されることになる」と述べている。
 マルチバース理論は、量子論の「多世界解釈」にも通じる。現代物理学を支える量子論によると、あらゆるものはすべて「波」としての性質を持っている。ただしこの波は、私たちが知っている波とは違う、特殊な波、見えない波である。それで、この波をどう理解するかという点で解釈の仕方がいくつかあるが、その一つが多世界解釈というものだ。SFでは「パラレルワールド」とか「もう一人の自分」といったアイディアはおなじみだが、私たちが何らかの行動をとったり、この世界で何かが起こるたびに、世界は可能性のある確率を持った宇宙に分離していくわけだ。
 量子論においては、いわゆる「コペンハーゲン解釈」が主流となっているが、この多世界解釈こそが量子論という最も基本的な物理法則を真に理解するうえで、一番明快な解釈だと佐藤氏は言う。そして、世界が複数に分かれていくという、一見すると非現実的に思えるこの多世界解釈という考え方が、実は物質世界が本当にどういうものであるかを認識するうえで、非常に本質的なものを抱えているというのだ。
 多世界解釈は、特にタイムマシンの問題を考えてみたときに非常に興味深い。時間や空間の物理学である一般相対性理論においては、タイムマシンはつくられてもよい。何ら理論的に不可能とされていない。つまり、私たちは時間をある一方向にまっすぐ進んでいるように思っているが、それがグルッと回って過去につながっていても何の矛盾もないのである。ちょうど、地球の上をまっすぐ歩いていったら、グルッと回って元の場所に戻ってくるようなものだ。一般相対性理論は一切それを禁止していないばかりか、基本となるアインシュタイン方程式を解いてみると、ある場合には、時間がループをなすような解答が存在するのである。だから、それだけを見ると、相対性理論はタイムマシンの存在を否定していない。むしろ存在してもいい、存在するという解すらあるということになっているのだ。
 しかし、やはりタイムマシンが存在すると不都合が起こるのである。たとえば、タイムマシンで過去の世界に行って、自分を生む前の母親を殺してしまうと、自分が生まれるはずがない。生まれるはずのない自分が、なぜ過去にさかのぼって母親を殺せるのかという自己矛盾が起きてしまう。有名な「親殺しのパラドックス」だ。
 だから、タイムマシンは何らかの手段で禁止されないといけない。そこでスティーブン・ホーキングたちは、物理学を支えるもう一つの柱である量子論がタイムマシンを禁止するはずだと言っている。現代物理学の体系は、相対性理論と量子論という二つの土台の上につくられてきたわけだから、一方が肯定していることをもう一方が否定することで、物理学の体系がうまくでき上がっているという理解である。
 具体的には、タイムマシンをつくって過去の時間に戻ろうとすると、量子論が予言するさまざまな効果が働くために、過去の時間に戻ろうとする経路が縮まってしまって通行不可能になるというのがホーキング仮説だ。「時間順序保護仮説」というもので、時間の順序は、過去から未来へ連続的に保護されるというわけである。しかし、これはあくまで仮説であり、数学的な証明ができているわけではない。いずれにせよ、相対性理論がタイムマシンをつくろうとすると、量子論が邪魔をするというのがホーキングの主張である。
 ところが、量子論を用いた「量子コンピュータ」の理論などで活躍しているドイチェによれば、量子論は何も邪魔などせず、タイムマシンをつくることはいくらでも可能であるという。ただし「親殺しのパラドックス」が起こると困るので、ドイチェは、各出来事が起こるたびに無限に宇宙は分離していくと考えるのである。つまり、タイムマシンに乗って過去に戻って、自分の母親を殺したとしても、それは別の宇宙に行って、別の世界にいる母親を殺しただけなのだ。その宇宙ではその後、違ったシナリオがどんどん進行していくかもしれない。でも、自分の存在する宇宙の母親には何の影響もない。だから、タイムマシンができて過去へ行ったとしても、別の宇宙の過去の歴史は変わってしまうが、自分の宇宙の歴史は変わるわけではないという、非常に興味深く、かつ説得力のあるアイディアなのである。
 そもそも相対性理論がまったく否定せず、その存在を認めているタイムマシンを量子論に邪魔させるというのは、いくら天才ホーキングの理論とはいえ、やはり無理があるだろう。ここはポジティブにタイムマシンは実現可能なのだと信じて、かつ、相対性理論と量子論を矛盾が生じないように組み合わせようとすると、多世界解釈という考え方が何よりも論理的で、つじつまが合うのである。
 そのホーキングも、『ホーキング、未来を語る』のなかでは、きわめて興味深い最新の話題を紹介している。それによると、私たちの住んでいるこの世界は十次元空間に浮かんでいる三次元の膜、いわゆる「ブレーン」と呼ばれるものであるという。ちなみに、「ブレーン」という言葉は、英語で「膜」を意味する「メンブレーン」を省略したものだ。この考えはホーキングのような宇宙物理学者のオリジナルではなく、素粒子の間に働く「力の統一理論」を研究している素粒子物理学者たちが、「スーパーストリング理論」という最新理論で考えると、すべてがうまく、統一理論ができるということで考えられてきたものだ。「超ひも理論」と訳される「スーパーストリング理論」とは、物質を構成する極小の単位は点状の微粒子ではなく、ひも状のものだという理論である。
 いずれにしても、十次元の空間とはとてつもない概念だ。量子論と相対論との幸福な結婚をめざす理論物理学というサイエンスは、宇宙や時間の究極の姿までをも描き出そうとしている。かつて「来世」とか「四次元」といった概念が私たち人類の心にいかに影響を与え、人類がその想像力を哲学・芸術・宗教とあらゆる方面に広げていったかを思い起こせば、マルチバース、多世界解釈、そして十次元空間といった考え方が、今後、私たちのイマジネーションをどれだけ豊かにするのか、今は想像もつかない。
 物理学以上に二一世紀の人類に影響を与えることが確実なサイエンスが生物学である。
 生物学でいうと、二〇世紀は「遺伝子の時代」だった。一九〇〇年、二〇世紀の直前に「メンデルの法則」が再発見され、遺伝に何か因子が働いていることが広く認められた。そして一九五三年、世紀の真ん中に、遺伝を担っているDNA(デオキシリボ核酸)という物質が二重らせん構造をしていることを、ワトソンとクリックの二人の天才分子生物学者が発見した。DNAを基本にして、すべての生き物を仲間として考えられるようになったのである。
 そして、二一世紀は「ゲノムの時代」だ。DNAが集まって形成するゲノム(全遺伝子情報)で生命を考える時代になった。DNAはあらゆる生き物が共通に持っていながら、生き物ごとに持っているゲノムは違っていて、それぞれの生き物の性質を決めている。
 ヒトゲノムはヒトの生命の設計図であり、二三対の染色体DNAの上に三〇億の塩基という化学の文字で記されている。そこには数万種類の遺伝子があり、それぞれの遺伝子から特徴的なタンパク質がつくりだされ、そのタンパク質の相互作用によって生理作用が営まれる。二〇〇三年四月、ヒトゲノムの解読が遂に完了した。人類を月に送ったアポロ計画に匹敵するといわれる生命科学の壮大なるプロジェクト、「ヒトゲノム計画」の最重要目標の達成である。いくつかの重要な遺伝子の作用も突き止められ、遺伝子テクノロジーの開発が一段とヒートアップし、遺伝子治療、ゲノム創薬など医療革命も進む。
 こういった一連の流れは、早くも世界全体を揺るがし始めている。五〇〇年前にガリレオは「地球は太陽の周りを回っている」と主張し、一五〇年前にダーウィンは「人間は神によって創られた」という説に異議を唱えた。どちらも、人々の物の見方を根底からひっくり返した。地動説は宇宙に対する人間の位置づけを変え、進化論は自然に対する人間の位置づけを変えた。ヒトゲノムの解説と、そこから派生したテクノロジーは、人間そのものに対する私たちの認識を一変させることになるだろう。こうした歴史的なパラダイムシフトは、宇宙から自然、自然から人間へとその対象を狭めてきた。そして、いずれの変化も人々の心、特に宗教に対して大きな影響を与えてきたのである。
 ジョン・ネズビッツなどは、遺伝子テクノロジーが伝統的な宗教に突きつけている問題は史上最大の難問であるという。ヒトゲノムが解読され、そうした科学的探究を支持する思想が広まることで、「人間とは何か」を根本から問い直す必要性が生じているというのだ。遺伝子決定論とは、遺伝子が人間の身体的特徴のみならず、その性的嗜好や攻撃性、さらには信仰心の強さまで決定しているという説である。この理論の登場によって、神学者たちは自由意志論や信仰の必要性、ひいては神の存在自体に対する考え方の見直しを迫られているのだ。
 「正直言って、もし遺伝子が人間のすべてを決定していると判明したら、宗教界は困ったことになる」とユダヤ教導師のアービング・グリーンバーグは語る。「全世界が頭を抱えてしまうだろう。宗教とは結局、自由意志という概念のもとに成り立っているのだから」
 別に宗教人でなくとも、たとえばクローン人間をつくるといった究極の遺伝子テクノロジーを前にしたとき、私たちの倫理感は大きく揺れる。すでに一九九六年、イギリスにおいて世界初の体細胞クローン羊「ドリー」が誕生し、二〇〇〇年には日本の茨城県で体細胞クローンブタ「ゼナ」が生まれ、世界中に強い衝撃を与えた。
 「クローン人間はできるか」。文部科学省がインターネット上に設けたホームページは「可能」であることを前提にメリット、デメリットをあげている。もともと体外受精なども一種のクローン技術なのだが、羊やブタで成功したクローン技術を人間に応用するメリットは、人の発生や寿命、形態などの研究に役立つ。子どもができない夫婦がどちらかの遺伝子を持つ子を持つことができるなどである。
 しかし、同時にクローン技術は私たちに倫理的な問題を鋭く突きつける。男女が関わって、偶然性のなかで子どもをつくるという倫理観の崩壊が予想されるほか、生まれてくる人の遺伝情報があらかじめわかることで、優れた資質を選ぶ優生思想を助長する。また特定の目的で人をつくり出すことで、人を道具とみなす危険も生じる。安全面でも、クローン動物の寿命は短いとも言われており、成長や老化に異常はないかなど、まだ不明の点が多い。
 いずれにしろ今世紀では、クローン技術をはじめとした遺伝子テクノロジーが情報技術を含む他のテクノロジーすべてを圧倒して発展するだろう。ネズビッツも言うように、これほど大きな影響力を持つテクノロジーが開発されたのは、核分裂技術の登場以来である。核エネルギーは、人類に自らを滅ぼす力を与えた。対して遺伝子テクノロジーは、死から生をつくり出す力、かけ離れた種類の生物同士を交配する力、成熟した細胞を原初の細胞に若返らせる力を私たちに与える。ホーキングは、望ましい発展のためにヒトの遺伝子テクノロジーを許可すべきだということではなく、私たちが望む望まないかにかかわらず、いずれそれは始まるだろうと予言する。遠からず、私たちは人類の進化そのものをコントロールするのだろうか。
 ヒトゲノム解析、遺伝子治療、人工生命、生命のコピー、老化と長寿のコントロール、そしてクローン技術・・・・・・まさに二一世紀の「生命ビッグバン」というべき遺伝子テクノロジーの最前線を見ると、よく言われることだが、人類が「神の領域」に踏み込みつつあることを実感する。これまで人智を超えた究極の謎であった「宇宙」「時間」「生命」といった大問題に挑む二一世紀の科学は「神化」を遂げているのである。そして、その神化の原動力は、何といっても人類の好奇心だ。
 人間の持っている好奇心が科学をつくる。これを英語では「キュリオシティー・ドリヴン」というが、この十全性あるいは完全性を私たちは信じて、人間の好奇心が科学をつくってきて、それは完全な理解に向かっているというひとつの大きなパラダイムを持っていた。しかし、今日ではそれはどうも修正しなければならないようだ。キュリオシティーともうひとつは「倫理」という人間のエシックス、この二つが兼ね備えられなければ、矛盾だらけの富しか生まれず、さまざまな破綻を生じたり環境問題を引き起こしたりする。いま私たちに必要とされるのは、エシックスのソシオロジー、倫理の社会学なのかもしれない。人間には欲望というものがあり、これは大脳皮質といういちばん最近獲得した脳の機能なので、まだ自分ではコントロールできない。だから科学者が自然のベールをどんどん剥いでいって新しい情報を得てくると、それを自分のために使おうとする。その欲望をコントロールできないだけに、とんでもない方向に向かう可能性がある。それを防ぐのが、倫理の社会学なのだ。
 一九五九年にイギリスの物理学者C・P・スノーは『二つの文化と科学革命』のなかで、自然科学的文化と人文主義的文化のあいだの亀裂を嘆いた。自然科学的文化とは客観的世界であり、人文主義的文化とは主観的世界である。この二つの文化は今や互いに理解しようとせず、ときには敵意と嫌悪の溝がその間を隔てているとしたのだ。二つの文化のぶつかりあう点は、当然、創造の機会をつくり出す。人類の精神活動の歴史において、ある突破口が開かれたのはまさにこの点だったのであり、いまや、機会はここにあるのである。スノーは言う。「科学は私たちの心が体験するすべてのものと同化されなければならないし、その重要なものとして同化されなければならない。そして科学以外のもの同様に無理のない形で使われなければならない」と。
 スノーの批判から四〇年も経過してから、アメリカの科学ジャーナリスト、ジョン・ブロックマンは「二つの文化」を交わらせ、科学によって人間を考える「第三の文化」を宣言している。しかし考えてみれば、もともと科学と哲学は同根であったのである。現代科学は古代ギリシアの知から出発した。プラトンやアリストテレスはサイエンスの祖であり、そのときの関心といえばやはり、自分の身の周りの自然を知ることだった。ここでもう一度、身の周りに対する素直な問いのなかに科学的な方法論を位置づける必要があるのではないだろうか。科学の目的も哲学同様、結局は人間を幸福にすることである。「宇宙」「時間」「生命」という人智の限界に挑戦し、神の領域に足を踏み入れるに際して、私たちはもう一度、「幸福な科学」について考えなければならないのだ。